朝の光の中に家を見つけた
31期生 角本 慶子(旧姓 辰田)
ものを書くということから、すっかり遠ざかった生活のまま、60を過ぎ、新かなづかいもつかいこなせない今の私に、いくら強烈な青春時代の思い出といっても、文章など書けるのかなという思いの中で、40何年振りに、何か書いてみたらどんなことになるかなとも思ったりして、バラバラの記憶を拾い集めてみました。こんな機会に、自分の青春の記録を、少しでも書いてみるのも、意味があるように思えたりして。
小学4年生の時に意味も分からぬまま、日の丸の旗を振って出征兵士を送った長い道の記憶、学校の先生から、今に戦争が長びけば、木綿がなくなり、絹より貴重なものになるといった話を不思議な感じで聞いたことから始まって、支那事変から、太平洋戦争にすべり込み、深みにはまっていったようです。子供にとってというより国民全体が命ぜられるままに、ついていくより仕方のなかった時代でした。生活もだんだんきびしくなり、軍隊や軍需工場などに関係のある向きでは、割合に物資の流通が恵まれておりましたが何のルートも持たない一般市民には、必要物資を手に入れる方法は、ただ一つ、物々交換という原始にもどったような方法しかなく、生産する人は、それをいろいろな物に換えることができるので、割合強い立場にありました。お金とか、衣料切符とかは物の裏づけが確かでないため、あまり価値のあるものではありませんでした。
通学用の靴なども適当な品が手に入らず、男物のサイズの小さいものが、何かのルートで手に入ると、それを利用するしかなく、見かけが気になりながらも、他にも一人そんな友達を見かけて、ちょっとほっとした気持ちで、通学したものです。
生活のためには見かけなど取り合っておれない時代で、そろって身にまとう工員服も男物であったり、自分たちの青春はこれだと信じ、カーキ色の工員服を着ることで、一人前に戦争に参加している満足感を味わっていたものです。(戦後長い間、この色に対する拒絶反応みたいなものから抜けることができませんでした)何のうるおいもない軍需工場の殺風景な作業場でしたが、学校側が気を使ってくださり、ささやかな囲いをめぐらしてあって、一般の工員の方とは別扱いになっておりました。青春時代のふしぎさで、そんな毎日の単調な作業生活の中でも、サーベルを吊した若い技術将校の方の作業説明に、あこがれの夢をえがいたり、初めて見る旋盤の銀色の旋くずの舞を美しいと目を見張ったものです。朝から鉄粉にまみれて、カエリとヤスリを力を入れて握りしめたのも、教え込まれて聖戦信じきって、背伸びした思いで、一役かってまじめに取り組んでおりました。
何時まで続くかわからない空襲警報、そして防空壕への待避、言われるままに行動する毎日でしたが、じっと壕の中で、外の気配に耳をそば立てながら、何時間も身を寄せ合って、解除を待ったものです。そんな時、比較的食料のゆとりのある人が、大豆をいったおやつを、救急かばんの中へしのばせていて、何もすることのない空腹の壕の中の時間をまぎらせてくれました。こんな壕の生活の続くある日、いつもより長く壕内の時間を過ごしたあと、外に出た時に驚きました。暗い壕の中から出たというのに、外の色はこの世の終わりの時はこんな色ではないかと思えるような土色の世界が待っておりました。それが朝であったか、昼であったかははっきり記憶がないのですが、いつまでたっても、夜の明けない土気色のすごい色をしておりました。この日が廣島に原爆の落とされた日だったのです。
死と直面した人間の生活ともいえない毎日の中で、これが自分の生活であると受け止めて、指示されるままに行動するより仕方のなかった素直な青春時代、それもとうとう終わりを迎えたのがB29の大掛かりな爆撃でした。その日、枚方工場の辺りは爆撃をのがれて、阪神地方があます所なくやられてしまいました。作業が終了して帰宅時間を迎えても、帰る電車は止まってしまい、同じ方角の者ばかりがまとまって道のわからぬままに線路をつたって帰ることになり、果たして帰れるのかと戸惑いながら歩き出しました。途中鉄橋の上を渡らねばならなくなった時は、目のくらむような思いでした。おそらく必死の思いで、他に方法がないので渡れたのでしょうが、引返すことのできる状態であれば、渡らずに引返したことでしょう。だんだん友達の数もへり、大阪を通り抜けるころは、一人になってしまいました。何とか家に帰りつきたい一心でしたが、夜になり、真っ暗な街を歩き続けました。十三を通るころ、燃え尽きた家々の間に、石炭が積まれてあった工場でもあったのか、まだ赤、青の不気味な色をして燃え続けていました。両側の熱気がひどいので、辛うじて道の真ん中を通り抜けて行きました。夜が明けてくると、街はすっかり焼け野原で、家が近づくにつれ、やれやれもう一息という反面、果たして我が家があるだろうかと、不安が広がってきました。我が家の見える焼け跡の曲がり角まできて、ああ家が残っていると、朝の光の中に見つけた時は、何ともいえぬうれしさで家に着いたものです。こんな緊迫した状態の中では何もかもが命がけで働いていたのですから、平和になった今では考えられない異常な心理で、毎日が過ぎていったように思います。残っていた家の玄関の真中に六角形の穴が畳をつき抜けておりました。直撃した弾が、幸いにして不発に終わったので、穴だけですんだわけです。周囲の家は皆全焼して、その火の粉や炎がふりかかってきたのを、ご近所の方々が力を合わせて消し止めてくださったということでした。バケツリレーなどほんとに小さな力の集合で、一軒の家を大火の中から救っていただけたということは、奇跡のような話です。消防車など、一台もこない時代でしたから。
何度かの空襲の最後だったと思います。大阪市街の大空襲の夜、服部の松林の堤防に掘られた防空壕の一つから見ると、大阪方面の空は真っ赤でした。その上へ、焼夷弾の火の雨が止めどなく降り注いで、地獄絵のような、すさまじい眺めでした。そのあと、だれ、彼が亡くなられたといったことを聞いても、悲しむゆとりもなく、毎日の戦いに追いつめられ、逃げるのが必死な一日一日でした。自分自身がいつ死に直面するのか、全く何の保証もない天災のように受け止めるしか方法のない、不安なその日その日を重ねておりました。
このころになると、食糧危機のひもじさも一層きわまっていて、家族を守るべき父はすっかりやせて、夜ごとの空襲に荷物を防空壕に運ぶ労働も身にこたえているように見受けられました。配給のみで、暮らしておられたある裁判官が、栄養失調で亡くなられたと、新聞に報道されたのは、ショッキングな話で、まじめに生きていれば、だれもがこの通りであると、証明されたような不気味な話でした。
成長盛りの弟もカロリーの低い食物ばかりで、何とかお腹をふくらませていたものですから、すっかり成長が止まり、小さくちぢこまったようなままで、毎日が満腹感のないまま、労働を強いられ、不満でいつもいらいらしておりました。飽食の時代には考えられないような若い世代の悲劇でした。あのままあと数ヶ月も、あの時代が続いていたら、弟は心身共にダメになっていたのでは・・・・・と、間もなく戦争が終わってくれて解決したものの、もう一生の中に二度と味わいたくない辛い生活でした。
そんなに恐ろしい思いを目前で見たというような経験はせずにすんだのですが、艦載機のすばしこい動きは、直接自分の生死につながる怖さを感じさせられたことがあります。艦載機と呼ばれた小さな飛行機が、突然頭上すれすれに飛び廻って、搭乗員の顔まではっきり見える所まで近づき、機銃掃討といわれる射撃をくり返すことがありました。身をひそめていた、家の庭の壕から出た時に、盛り土の上に、蜂の巣のような穴が無数にあけられているのを見て、目を見張ったことでした。身をかくす所がない場所で、機銃掃討に出合った人が、もてあそばれるように、標的になった話も、うなずかれるような弾痕でした。
いよいよアメリカ兵の上陸に備えて、どう対応するべきかと、工場の休憩時間に竹槍の使い方を習ったりしたものです。わからないことに立ち向かっている危機感、その中に死ぬ時が近いような気がするという不安で、心はまた重く重くなっていきました。
終戦のご詔勅は家の畳の上に座って聞きました。ラジオのご詔勅の声は、ラジオの性能も悪く、があがあという雑音の中で聞こえたので、内容もよく理解できずに、それでも、戦争は終わったのだと、へなへなと力のぬけるような思いで聞いておりました。今日から電気がつけられるという解放感と、空襲もなく、夜通し眠れるに違いないという期待に何ともいえない安らかさを味わいました。
これを書き出した時、期せずして、湾岸戦争が火蓋を切りました。なまなましい映像を見ながらペンをとりました。






















